ノンフィクション「理系の子 高校生科学オリンピックの青春」感想

理系の子―高校生科学オリンピックの青春

理系の子―高校生科学オリンピックの青春

 

米国で毎年開催される、中高生の理科自由研究世界一を決める大会「インテル国際学生科学フェア」の参加者達を追ったノンフィクション本。

この本で紹介されている、11組の少年少女科学者が科学・工学に真剣に打ち込む姿は、どれもドラマチック。特に、

 (1)研究動機と、科学に夢中になっていく姿

 (2)取り組む中で発生した困難にどう立ち向かったか

 (3)その研究が社会や周囲をどう変えたか

がそれぞれ特徴があって面白かった。

 

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以下、印象に残ったストーリー。

 

寄せ集めの道具で核融合炉を作った天才少年(第1章「核にとり憑かれた少年」)

研究動機は純粋な知的好奇心から。核融合炉を自宅で作ってしまうことの危険性や影響度を理解していたわけではない。この天才少年の能力と興味対象は、周囲の手におえる物ではなかった。しかし、指導者や機材を提供してくれるコミュニティ、そしてサイエンスフェアの存在があったおかげで、才能を健全に伸ばすことができた。能力のある者には国家や社会が全力でサポートする。それが米国の強みの一つなのだと思う。

 

少数民族ネイティブアメリカンの貧しい家に育った少年が、ゴミ捨て場の廃材で太陽光発電による暖房装置を作り出した(第2章「ゴミ捨て場の天才」)。

「必要は発明の母」のお手本。日本にそこまでハングリーな境遇の子供はいないだろう。米国民の多様さは極端な貧富の差も生むが、それをバネにして努力する人もいるのだということだろう。

 

ハンセン病を発病した少女が、自身の治療過程を研究をして社会の偏見と闘う(第3章「わたしがハンセン病に?」)。

ハンセン病は感染力が低い病気だが、いまだに偏見が強いらしい。この章で取り上げられるのは、その偏見の壁を崩すために自身が広告塔になろうという「精神的強さ」を持った少女。同時に、「私のようなカワイイ女の子が病気だと宣言することで社会の目は変わる」と考える「したたかさ」を備えた子、だと思った。社会を変えるには、そういうことも必要なのだろう。

 

公害を発生させている疑いのある科学会社に対し証拠を示すため、水道水の汚染度を調査する(第6章「デュポンに挑戦した少女」)

少女が住む街は、化学会社により雇用や税金の大半を賄っている、いわゆる企業城下町であり、彼女が汚染度を調べて公表しようとすることには、家族を含めみんな反対していた。にも関わらず、正義感・使命感から研究を進め、周囲の理解を勝ち取ったストーリーは感動的。子供の純粋さが社会を動かしたのだろう。

 

女優志望の少女が科学の面白さに目覚め、蜂の生態に関する研究に夢中になっていく(第9章「イライザと蜂」)。

科学の勉強なんてダサいと思っていた少女が「科学ってカッコいい」と徐々に魅了されていく。勉強=義務ではなく、熱中する興味の対象と思わせることができる環境が、子供にとって大事なのだと感じた。

 

自閉症の従妹のために、音楽やPCゲームを使った教育プログラムを作り上げ、言葉や感情を教えていく(第10章「ロリーナの声に耳を傾けて」)

この章の主人公の少女が、自閉症に対し有効な教育プログラムを思いつき、継続して実行できたのは、少女の秀でた観察力と、従妹への愛情が成せることだったのだろう。この本で取り上げられる11組の研究者の内、6人は女の子。分野にもよるかもしれないが、世の中を変えるような科学研究に向いているのは、本当は男性よりも女性なのかもしれない。

 

地味でモテなかった科学オタク少年が、発明によってヒーローになっていく(第8章「手袋ボーイ」)

僕自身にとっては、一番感動的な話。日本でも、おとなしくてオタクで勉強ができることより、活発でリーダーシップがあったりスポーツができたりすることが褒めたたえられるのだけれど、そんなの一面的で不公平だとずっと思っていた。世の中を良い方向に進めていくためには、両方の人材が必要。今、日本も理系離れだとか言われているけど、もっと政策やマスコミで支援すべきなのだろう。もっとロボコンやサイエンスフェアみたいなのを大々的にやって、理系技術者ってカッコいいという風潮にならないといけないと感じた。