小説「ヘヴン」感想
- 作者: 川上未映子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/09/02
- メディア: 単行本
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中学校で苛められている者同士の少年と少女の間の友情、苛める側・苛められる側の間の論理を描いた小説。
川上未映子作品は初めて読んだ。芥川賞作家ということで純文学なのかと思ったけど、この小説は読みやすかった。好きかも。
テーマは学校の「いじめ」。
苛める側は、大人に気付かないように巧妙にやってるくせに、なんら罪悪感を感じていないこと。
そして、苛められる側は、基本的に暴力を振るえない人間だから反抗することもできないし、要領悪いから誰かに助けを求めるという発想を持つこともできないこと。
これが現実なら、とても恐ろしい。
この小説では、苛める側・苛められる側それぞれ、印象に残る主張・論理が登場する。
苛められる側の論理
苛められる少女コジマの、
- こんなふうな苦しみや悲しみにはかならず意味がある。
- わたしたちはただ従っているだけじゃない。自分たちの目のまえでいったい何が起こっているのか、それをきちんと理解して、わたしたちはそれを受け入れているんだよ。
- あの子たちにも、いつか分かるときが来る。
という願望に近い主張。
「苛める側がいつか自分の愚かさに気付くまで耐える」という強い意志は美しく見えるが、やはり現実は無常だ。
実際には、苛める人間はそこまでの想像力が無いからこそ苛めという愚劣な行為が出来ているのであって、成長したとしても苛められた側の気持ちを思い量ることなんかないのだ。
で、社会人や親になったら、自分のしたことはすっかり棚に上げて忘れ去り、会社や家庭の中では立派な大人として尊敬されたりするのだ。
そいつらに青春を踏みにじられた人達にとっては、やりきれない話だ。
だから、コジマと主人公の少年に言えることは、「こんな奴らに付き合う必要はない。そこから逃げろ。」しかないのだと思う。
苛める側の論理
苛めグループの中の一人百瀬と主人公との口論のシーンで、百瀬の語った苛める側の論理。最初は、
- (苛めを受ける対象が主人公の少年なのは)たまたま。たまたまっていうのはこの世界の仕組みだから。たまたまじゃないことなんてこの世界にあるか?
- (苛めをするのは)意味なんてない。したいことをやっているだけ。それが正しいかどうかは関係ない。
という、自分勝手で虫唾が走るような屁理屈。 でもだんだん、
- 「自分がされたらいやなことは、他人にはしてはいけません」ってのはインチキだよ。自分でものを考えることも切りひらくこともできない、能力もちからもない程度の低いやつらの言い訳にすぎないんだよ。自分がされたらいやなことからは、自分で身を守ればいいんじゃないか。
- 相手の立場に立って行動しろなんてことを言えるのは、そういう区別のない世界の住人だけだ。矛盾のない人間だけだ。でもさ、どこにそんな人間がいる?いないだろう?自分がされたらいやなことなんてみんな平気でやってるじゃないか。肉食は草食を食うし、学校なんてのは人間のある期間における能力の優劣をはっきりさせるためのものだし、いつだって強いものは弱いものを叩くんだ。
みたいなことを主張しだし、こいつは世の中の無常さについて分かりすぎてて、そして、ひとり哲学的な思索を日々せざるを得ない状況にあるのだ、と感じた。
小説には出てこないけど、彼にも複雑な背景とかがあるんだろう。
小説では、何が正しいのか、どうすれば救われるのか、はっきりとした結論は出ない。
でも、
- なぜ自分がされたら嫌なことは他人にしてはいけないのか
- 自分と他人・社会は切り離されているのか
- どんなに対話をしても分かり合えない人たちというのはいるのか
といったこと(哲学の入口)を考えるきっかけとして、特に中高生に読んでほしい本だと感じた。